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Mosaic Box
梅之ゆたか著
小説ファンタジー詩集歌集
概要・登場人物: 櫂はあるけれどあるが儘におやくっさま
和裁教授縁談沙智子五人の男の子正夫佐吉遺産相続挽歌

沙智子

新居になったアパートは、便所は共同だし風呂場もない。便所は不潔極まりないし、数日置きに銭湯に通わなければならない。隣の声や物音で眠れないことも多い。二階で子供がいれば、足音が響くという苦情もやって来る。
幼い子供達は、共同便所の深さを怖がり、一人で便所に行かない。実際に便槽に落ちた子供もいるので付いて行きたくもある。銭湯の広い浴室を面白がったり、深い浴槽を怖がったりと忙しい。これでお腹の子が生まれたらどうなることやら。子供達が早く慣れてくれれば良いけれど。

梅雨に入ると、二階だというのに黴が生え、畳がジメジメ、ペタペタとして湿気がひどい。野菜だって作れないし、子供達が遊べるところもない。蚤はここと同じにいたけれど、乾燥した砂地の佐吉の家が恋しくてならない。
おまけに、お腹が大きくなったので、急な階段で足を踏み外さないように、壁に手をつきながら下りないと危なくてならない。こんなところで赤ん坊を産んでも大丈夫だろうか。早くどこかに移りたい。お金さえあれば。正夫さえもっとちゃんと働いてくれさえすれば。武志が生きていてくれれば。何度繰り返し思っただろう。
梅雨の終わりに三女の沙智子が生まれた。病気にならないかとヒヤヒヤしながらの気を揉む毎日だったが、何とか無事に乳児期を乗り越えた。今は、もうヨチヨチ歩き出して、あちこちで愛嬌を振りまいている。その様子がいかにも可愛いと、アパートの奥さん達から可愛がられている。どうやら、愛嬌を振りまくと可愛がってもらえるのがわかっているらしい。
それにしても、言葉も話せないのに、沙智子の頭の良さは群を抜いている。姉達にいじめられても、どちらの姉がいじめたのか、「ックン!ックン!」と、指を差して泣きながら訴える。上の子達の時を考えても、周りの一、二歳児と比べても、全く考えられないことだった。この子はすごく頭がいいんじゃないだろうか。今や佳菜と正夫の期待の殆どは沙智子に注がれているといっていい。

が、不衛生極まりないアパートは、沙智子に最悪の試練を与えた。それまでろくに病気もしなかった沙智子が高熱を出した。今あちこちで蔓延している疫痢じゃないだろうか。このアパートでも何人も病人が出ている。気にはなったがどうしようもなかった。上の二人はかからずに済んでいるが、体力のない幼児は逃れられなかったらしい。
沙智子が高熱を出したというので、大家が様子を見にきた。沙智子のそばを離れられない佳菜は、近所にかける迷惑を考えて平謝りに謝った。ところが、大家から聞いた話にかなは仰天した。
近所の疫痢患者の家では、沙智子が見舞いに来たので、その家の者が慌てて追い返したのだという。子守をしていた真沙子が「可愛がってもらってたんだから見舞いに行かな。」と言って行かせたらしい。大家も近所の者も子守するには幼いからわからなかったんだろうと言っているという。
でも、でも、真沙子は、去年も、一昨年も、美沙子を背負って、よく川に洗濯に行っていたくらい利発な子なのに。あれほど、恐い病気だから近づくな、と言っておいたのに!それがわからないなんて・・・信じられない。でも、わざと行かせるはずはないし。でも、それじゃ、沙智子は、やっぱり疫痢なんだ。沙智子が死んでしまう!佳菜は目の前が真っ暗になった。

医者代もままならないが、医者に診てもらうと、やはり疫痢に間違いなかった。疫痢に罹った者は、大人も子供も次々に死んでいる。今日はどこそこの誰が死んだというのを耳にする。なんとか治してやりたい、死なせてなるものか。ほんとに、誰より利発な子なのに。この子が死んでしまうなんて。
沙智子はもう四日も高熱が続いていて、まるで下がるようすがない。意識も殆どない。佳菜は、諦めるしかないと腹をくくった。正夫も同様で、目を真っ赤にしている。できるだけのことをしてやろう。こんなに小さいのに、何て酷いことだろう。あの家に、ただいられただけで、こんなことにはならなかったものを。

五日目の午前中、医者がやってきて、診察を終えたとき、新薬が出たと話していった。佳菜も正夫も耳を疑った。新薬のペニシリンを使えば助かるかもしれないという。新薬で簡単には手に入らないということだし、高価だが、お金さえ出せば手に入るという。赤ん坊は量も少なくてすむので、お金もそれだけ少なくてすむ。
医者は、この辺では誰も使った者がいないと言い残したが、二人は狂喜した。何とか治してやりたい一心で、大して親しくもない他人の家にまで行き、頭を下げて借金をして回って工面した。しかし、医者の言葉は惨かった。
「先生、金ばなんとかしたけん、そんペニシリンば打ってやらっしゃれんな。」
「ようまあ、高かとに、よう集めなったなぁ。ばってん、一週間も高熱が続いとうけん、脳がやられとうかもしれんばい。助からんやった方が良かったて思うかもしれんばい。そいに、滅多に手に入らん薬やけん、身体に合うかどうか試されんとたい。そやけ、薬の合わんで死ぬかもしれんばい。そいでもよかな?」

「なんな、先生、そりゃあ。」
「そげんたい。劇的に効くとばってん、身体に合わんときがあるげな。」
「そげな、そげぇな・・・!ばってん、そげんいうたっちゃ、こんままでも助からんとでっしょう。」
「そうたい。そうばってんが。そげぇまでして高か薬ば使うて、効かんやってもよかな?」
必死になって集めた金なのに、その医者の言葉はあまりにも惨かった。医者の言葉に、佳菜も正夫も、憤った。そして、畳に頭をすりつけ、口を揃えて頼んだ。
「当たり前でっしょう!何ごと、こげん必死んなって金ば工面すっとですか。ちょっとでん早う、薬ば打っちゃってつかあさい。」
「よか、よかたい。そしたら、大急ぎで取り寄せるきな。」
「有難うござす。よろしく頼みますけん。」
「ほんなごつ、よろしくお願いしときますけん。」
「わかっとうき、わかっとうけん、待っときんしゃい。」

医者はペニシリンを取り寄せるために、急いで病院へ戻った。その後も沙智子の高熱は続いた。熱が出て十日目の午後、やっとペニシリンが届き、医者がそれを打つのを、正夫も佳菜も、すがる思いで見ていた。打った後、医者が言った。
「こいで熱が下がらんやったら、助からんたい。運ば天に任せなばい。」
「そんときゃぁ、しょうがなかですたい。できるだけんこたぁ、してやったけん。」

夜中になっても、正夫と佳菜は、眠るのも忘れて揃って見守り、高熱が下がるのを待った。少しずつ下がりだしたときはいつの間にか二人とも泣いていた。涙が止まらなかった。次の日の朝一番に、医者が往診に来たときに、もう大丈夫だというのを聞くと、二人の顔は安堵と喜びで泣き笑いになった。
「ほんなごつ、有難うござした。先生のお陰ですたい。」
「なんばな。よう頑張って看病したたい。赤ん坊もよう頑張ったたい。こいが男ん子やったら助からんやったかもしれんばい。女ん子で良かったとばい。男ん子は弱かけんが。」

しかし、沙智子は、ペニシリンのお陰で命を取り留めしたものの、しばしば『ひきつけ』を起こすようになった。沙智子のような高熱で助かった例はなかったが、高熱の後でひきつけるのは珍しくもなく、医者は、単なる『ひきつけ』と診断した。
ただ、『ひきつけ』たときに、舌を噛まないように箸などを噛ませるようにと、よくよく注意した。しかし、咄嗟に間に合わないことがあり、正夫も佳菜も、自分の手をかませたことがあった。手が千切れるかと思うほどの力で噛むので、佳菜など悲鳴を上げたほどだ。
それから暫くして、正夫に町工場の長期の仕事が見つかった。職人仕事だが、似たような技術は奉公で身につけていたらしく、さほど大変でもないようで、夫婦とも、安心してほっと気が抜けたようだった。
そこに勤めだして数週間後、正夫がホクホク顔で戻ってきた。そして、運良く工場の近くに貸家の空きがあると言う。ここよりずっとましなようなので、誰かが借りてしまわないうちに急いで見に行こうと急きたてた。
しかし、真沙子と美沙子が遊びに行っているので探してこないと行けない。沙智子を正夫に預け、先に自転車で行ってもらうことにした。近所の神社の境内で子供達を見つけた。

「真沙子!美沙子!出かけるばい。ちょっと遠いけん、一緒に行かな。」
「も〜、せっかく遊びようとに〜。」と真沙子。
「どっか行くと?行く〜!」と美沙子。
「お父さんは沙智子ば連れて自転車で行ったけん。はよ、行かな。」
「じゃあ、このまま行くと?」
「そうばい、行くよ。」
「は〜い。」「は〜い。」

子供達を引き連れ、テクテクと三十分も歩いただろうか。先に自転車で行った正夫が道端で待っている。隣にいるのは大家さんだろうか。
「こんにちは。良いお日和で何よりです。」
「ほんなごつ、良いお日和で。家ば見なさっとに丁度良かですたい。そんなら、行きまっしょう。」
「よろしくお願いします。」
貸家はちょっとした原っぱの横にあった。子供達が遊んでも良いというのは有りがたい。相当くたびれてはいるが、二軒長屋の平屋なので足音も気にしないですむ。小さな庭があり、野菜も作れる。今のアパートなんかと比較にならない。佳菜も正夫もその場で引越を決めた。
「よろしくお願いします。いつでも越してきて良かとでしょうか。」
「良かですばい。あん工場に行きよんなさっとやき、家賃は給料が入ってからでん、良かでっしょ。」
「助かります。ありがとうございます。宜しくお願いしますけん。」
「良かとですよ。あん工場はうちの親戚がしよっとやき。建て直すともちいっと早かけん、こっちも良かったとですたい。」

佳菜は、翌日、早速、子供達に荷物を持たせ、沙智子を背負い、少しずつ運べるものから順に運ぶことにした。貸家に荷物を置いていると、大家さんが姿を見せ、リヤカーを貸してくれるというので、喜んで貸してもらうことにした。そうすれば、今日中に引っ越してしまえるかもしれない。もう、一日でもあのアパートにいたくなかった。
子供達も新しいお家は原っぱで遊べるというので、頑張って手伝ってくれている。子供をあまり疲れさせると、夜に夢を見て起き出すので、アパートに戻るときはリヤカーに乗せた。頑張って三往復もすると、その甲斐あって大物だけになっていた。
正夫が仕事から帰ってきて、リヤカーを貸してもらったというと、大急ぎで残っている整理箪笥と茶箪笥を運び出した。箪笥といっても、大きくはないのでリヤカーに何とか載ってしまったのには、二人で苦笑した。子供達と近所に別れをすませ、明日掃除に来る旨を大家さんに告げると、最後の荷物を載せたリヤカーを引いて、揃ってアパートを後にした。

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